「身近な素晴らしさに気づく」

多くに方々の傾向として(私も)、遠方の旅行へ力を入れ、高価な旅行代金を払ったうえ、できるだけ万端の準備をしておくことに、時間をかけてたりして、、、

一方、住んでいるところの近場にある施設や観光地に、意外と行かないもの。

・日本に来てから、ふるさとの中国に関することに聞かれたときに、「もっと中国のことをしっておけば良かった」と思う。

・関西に長年に住んでいて、圏外の方々に関西を案内しようとするときに、「もっと案内できるよう、近場の名所やお勧め場所を知っておけば良かった」と思う。

・長年のパートナーがいなくなって、「もっと一緒にいるときに、心や体のケアをしてあげれば良かった。ほかの方にない、配偶者のならでは素晴らしい価値の中身を知っておけば良かった」と思う。

いつでもできるという油断から、結局いつになっても実施できていない。

人間って、3日にしか生きていないという。昨日、今日、明日。

どなたの素敵な言葉の如く:「今日とは、昨日亡くなった人にとっては、どんだけ行きたいと願った明日。」

今日、生きているだけでも恵まれていると思い、そして恵まれている環境に甘んじないで、遠いところの素晴らしさと同様に、身近な素敵さにも気づきたい。

今朝、家から出発し、1時間以上に歩いた。途中、たくさん発見があった。歩けるだけでも幸せに思った。さらに言えば、今日一日、生きらせて頂くだけでもありがたく思う。

「喜怒哀楽」との付き合い方

喜怒哀楽のるつぼの中にあって、ドロドロした人間のいやらしさに苦しむ、悩む。でも、そんなこといちいち気にしていては自分がみじめになってしまう。

思い切り喜怒哀楽を受け止めて、あとはケロリと流して生きる知恵を身につけるよう努力したいものです。

「死を主とすれば」

生を主として考えると、

一日の生存はそれだけで、

定命を減らしていくことになり、不安となる。

死を主として、生を余命と考えると、

寿命が毎日それだけ増えたことになり、

一日の生が感謝となる。

生も死も、共に私である。

「素直さを持つ」

この頃、人間が素直さを持ち続けることが、どんなに大切なことかということが思われてならない。自分自身の生活を振り返ってみても、あらゆることに素直になれない自分が恥ずかしいやら悲しいやらの連続です。自分に言い訳し、つまらない自分と納得させようとしていることに気がつくとき、誰にでもなく自分自身が恥ずかしくなって顔がほてり、心に冷汗をかく思いがする。そんな時、素直になることの難しさをつくづく感じる。

「恵まれている自分」を見つける

何人も過ぎ去った半生(はんしょう)を振り返ってみるときは、必ずその人相応に与えられた得意の時代を持っている。

それはすべてが華やかに飾られた幸福に満ちた、その人の黄金時代である。

しかし、得意の時代には、恵まれている自分を反省する人は少ない。

多くは逆境に陥った時、はじめて過去の満ち足りた幸福を思うのである。

我欲を離れ得ない人は、得意の時代に臨んで恵まれた自分を省みようはしない。

いかなる境遇にも満足しうる人こそ、たとえ逆境にあっても、恵まれている自分を見出すことができる。